友達

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友達はいない、
と思っていても、
「いる」ことがある。

友達はいる、
と思っていても、
「いない」こともある。

そういうわけだから、
そもそも、友達って、
「いる」「いない」で
考えるものじゃなくて、
自分が「大切にするかどうか」で
考えるものかもしれない。

病む

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病んでいない人は、
病んでいる人を見ると、

ああ、たいへんだな、
ああ、自分はああなりたくないな、
ああ、どうしてなんだろう、
なんて考える。

けれど、自分が
病んでみれば初めて、分かる。

誰でも、病む可能性はあったのだ。
病む確率を抱えて生きていたんだ、と。

病むのは、人生の通過点。
おそらく、すべての人が通過する...

珍しいことでも何でもない。
誰もが通る通過点なのだ。

言葉を見ない

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言葉を見てはいけない。

その言葉が発せられる、
その人の背景を
見るようにした方がいい。

「病んだ」言葉だけにとらわれて、
こだわって、勝手に傷つき、
こちらも「病んで」しまってはいけない。

言葉は大切だ。
けれども、たかが言葉だ。
そういう解釈が必要なシーンもある。

大切な人の言葉ほど、
そういう見方ができないと、
大切な人なのに救えないことになる。

言葉を見てはいけない。

そして、それが分かったら、
言葉しか見られない人に、
無防備な言葉を発してはいけない。

別れ

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別れは、
去っていく人よりも、
残された人々の心に
波風を立たせることを知った。

それは知らなかったこと。
若い心ほど、
波風の立つのは激しい。

SNSの時代には、
「悲しみ」を見せることに、
みなが忙しくなる。

去ったいった人のことよりも、
その悲しみが主役になってしまっている。

その波は激しい。
飲み込まれそうになる。

自分の悲しみでなく、
「悲しみ」の波に飲み込まれ、
自分の悲しみを失う。

そして、
去っていった人への悲しみよりも、
残された人々からの
扱いに対する悲しみを抱くようになる。

何をしたというのか、
何をしなかったというのか。

悲しみは、人それぞれでないのか。
悲しみも、みなと同じものにしないといけないのか。

悲しみとは、故人を悼む個人の感情ではないのか。
どこかに、基準ラインでもあるというのか。
「わたしの悲しみ」が「あなた」に見えるというのか。

落ち着いて、悲しむことすら出来ない。
悲しみたいことに、悲しむことすら出来ない。
なんなんだ、この世の中は。

ぜったい、おかしいぞ。

自分のこと

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自分の話をするのは、
難しい。

自慢にならないよう、
しかし、
興味を失わせることがないよう、
相手の反応を見ながら、
「いい話」をする。

簡単なことじゃない。

自分が思う「いい話」をするのは、
それほど難しくない。

自分が感動して、
涙を流しながら話すのも、
そんなに難しくないかもしれない。

けれど、その涙に、
誰もついてきていなければ、
自己満足で終わる。

誰の心にも、その話は、
残らないかもしれない。

それでいい、と開き直るのか。
だったら、誰にもその話はするな。

自分の話をするなら、
相手を見た方がいいんだろうな。
何を話したらいいか、
何だったら理解してもらえるか、
何が必要とされているのか。

相手はスポンジ、
自分は吸収しやすい水になる。